日本のNGOについて雑感。

東京平和映画祭というイベントに参加してからの考察。
論点は三つ。

  1. どうにも立ち行かなくなった時、人は黒幕を捜し始める。
  2. 米国におけるオイルピークからみた事業機会。
  3. 環境NGOは一人で立てるようにならないとダメ。


まずはこの映画祭の概略から。
ちなみにさらに前置くと、自分はこれまでこのような名前のイベントに対して、偏った思想と政治的立ち位置の押しつけを感じるため嫌悪感と否定的印象を持っており、イベント参加後の今も変わっていません。ただ、環境NGOまでそのように見られつつある現状に危機感を感じており、なぜ、どうすれば、ということまで考えた次第です。

東京平和映画祭とは。

『スクリーンから平和を願う真実の声が聞こえる・・・』
食、健康、環境、戦争ーみんな繋がっている事実を知れば、私たちは未来を選ぶことができる


上記は表紙よりの抜粋。ここからも分かるように内容は平和問題に絡めての映画、7本の上映会。ちょっと大きめのホールに8割がた人が入っている感じ、延べ人数で200人ほどが参加してたのではないかと推察。自分が参加したのは『911スペシャル』の後半と『エンド・オブ・サバービア』の上映。前者は個人で作られた世界貿易センタービルの崩壊やペンタゴンに突っ込んだ飛行機についての疑問を数本、日本人による解説を交えながら上映したもの。後者は米国の抱える交通事情の実際とオイルピーク問題に絡めた警告を主題としたもの。

どうにも立ち行かなくなった時、人は黒幕を捜し始める。

この言葉は『エンド・オブ・サバービア』の中で述べられていたもの。遠からず来る石油の減産、オイルピークを超えた後、郊外(サバービア)に済む大多数の米国人がどういう行動を取るかということについて、このような表現を使っていた。つまり、石油価格の高騰といったものが環境問題の必然として起こったことを理解できず、原因を時の政府に求め、各地で暴動などの混乱が起きるだろうということだ。


米国の抱える問題として車以外の交通手段が発達していないことは理解していたが、郊外問題というものの存在は知らなかった。米国の産業界で最も力を持つものの一つであるオイルメジャーと自動車産業第二次世界大戦後の帰還兵への報酬として当時の中流階級にとって憧れだった郊外での暮らしを提供するためにとられた政策、といったことが背景にあったらしい。


ここから考えたことは次節にまわすとして、感想を二点+α。この言葉自体はあり得るなぁ、と思った。やれ不況になった、税金が上がった、格差が広がった、みたいな話でげしげし突かれる一方、その原因、時代背景を考慮するというのは広く行われているようには思えない。もう一つの感想は、この映画の直前に『911スペシャル』という映画を放映し、政府陰謀説を暗示させていることについて、自己矛盾を感じなかったのかなぁ、ということ。もろ「黒幕を探し始め」てるでしょーに。一応あの事件についての疑問が上がってるという事実だけは知ってたし、その擁護論と反論を読んでたので特にショックは感じなかったけど、逆にあの映画だけ見てたら流される人多いやろなぁ。「あるある」のおかげで映像に対しても不信感を抱く人も増えただろうから逆にそんなことも無いのだろうか。

米国におけるオイルピークからみた事業機会。

すでに始まっているものとして三菱重工が大量に風力発電施設の受注をしたというものがある。どうあがいても今後の省エネと再生可能・新エネルギーの開発はさけられない。日本は省エネ技術は世界トップクラスだし、風力発電はやや弱いけど再生可能・新エネルギーの開発にも注力を続けてきた経緯があるので、今後高い競争力を維持できる優良なマーケットが広がることに期待が持てるだろう。そしてもう二つ、新しく事業機会が生まれるかもしれないと感じているのが公共交通機関、要は鉄道の整備事業と、都市の再開発だ。


働く場所から離れたところに住むために起きた、自動車なしでは生活できないという郊外問題の解決策、その一つは今まで一部有力企業の力で排除してきた鉄道網の発達を急ぐというものだ。自動車が職場に行くのに使えないなら鉄道しか無いでしょう、ということなのだが、確か原油価格の高騰した二年くらい前のニューヨークで地下鉄がものすごい混雑してるという話を耳にした記憶がある。このような光景が恒久的に起きるようになる可能性はあるし、鉄道網を異常な勢いで発達させてきた日本には十分なノウハウがある。大きな事業機会になると見てよいのではないだろうか。


郊外問題のもう一つの解決策は生活圏の中で車の必要の無い範囲内に職場をもってくるようにすること。あるいは住環境をもっていくでもいい。そうすれば車はほとんど必要なくなるから石油使用量も減るでしょう、ということだ。事例を一つしか知らないのでどれほどの事業機会なのか分からないが、丸の内を再開発している三菱地所は確かニューヨークにも土地をもっていた。今後そういった都市部で十分な土地を確保できれば、職場環境の近隣に高層マンションなどの住環境を提供することが可能となる。再開発を通した大きな事業となるだろう。

環境NGOは一人で立てるようにならないとダメ。

大きく話が飛ぶが、どうしても環境の方に目がいってしまう自分にとって、環境NGO、あるいは環境企業というものがこういったイベントにスポンサーとして上がっていることに危機感を覚えた。安易な人集めが主張と論拠を弱めてしまってはいないか。


大きなイベントを開くのは多くの参加者を呼び、知見を広めることが出来るという意味で魅力的である一方、人の確保とお金の確保が難しくなる。日本にはそれほど大きなNGOが育っていないので、いくつかのNGOが協力することになるのだろう。しかし、主張する内容に政治的な匂いを感じると必ず人はそこから離れていく。環境問題をいかに科学的に調査し、議論してきたものでも、参加・協賛する相手には注意が必要だ。少なくとも自分は今回のイベントに関わっている団体にあまりいい印象を抱くことはできない。


企業と社会は対立構造としてしばしば語られ、NGOには社会を代表する役目を期待されている。しかし、本来企業は社会が求めるサービスを提供するためにあるのであって元から対立構造で話を進めるのは無理がある。NGOに求められているのは企業に対する提言能力であり、企業もそれを自分のサービスに反映することでさらなる収益や競争力とするというのが理想型だろう。ヨーロッパではこの形が進みつつある。


NGOは企業がパートナーとして選べるに足る存在となる必要があるし、企業にはNGOを選んで積極的に活用する必要がある。そのためにNGOが今後目指すべきは大規模化ではなく専門化、透明化だ。政治的色合いを極力排し、特定の問題について一目置かれる存在として世間に認められるようになる。今のCSRの流れを見れば、このようなNGOをないがしろにしようとする企業は少ないのではないか。


日本の環境NGOの中でも特定の地域に根ざして地域生態系に関わるNGOに自分は注目している。大きくなりようがない一方でその地域を一番知っている以上、まず意見を聞くべき相手であり続けるからだ。このようなNGOの日本中での増加と、企業との対話の発達はきっと有益なものになるし実現の可能性も高い。企業からもそういったNGOを選別し育てることが自分にとっての利益となることは、ただ文句を言うだけの存在が大きくなるより有益なことは容易に想像がつく。一人立ちできているうえで科学的な議論ができる、そんなNGOが求められている。

終わりに

想像以上に分量が大きくなってしまって自分でも驚いている。仕事の関係で思うところがたまってたんだろう、ということで。最後まで読んでくれた方、ご苦労様でした。ありがとう。意味わかんねー、とか、まちがってるやろー、とか言ってくれると勉強になるので助かります。ではでは。